音楽が好きだと叫びたい

わたしは歌うのがすきだ。それはもう昔からずっと。多少落ち込んだりしていても、お風呂場で大きな声で歌ってさえいれば機嫌がよくなる人間だった。決してうまくはない。母と姉は歌がうまくて、子どもの頃はよく「音痴」と笑われていた。それでも歌うことは楽しかったので、いつも歌っていて、そのまま大人になった。

演劇を始めてからも、わたしは隙あらば歌いたがっている。大阪時代に所属していた劇団レトルト内閣は、劇中に「B級レビュー」と銘打った歌とダンスが挿入されるタイプの作風だったので、常に歌いたいオーラ全開でアピールしつつ、しかしいざ歌をもらうとなかなかうまく歌えず演出家を困らせたりしていた。それでも次の作品の稽古が始まれば、懲りずに歌パートを欲しがった。いつかまたレトルト内閣に出演するときは、絶対にまた歌わせてもらうつもりでいる。

東京に来てからも、□字ックの公演「滅びの国」で劇中に流すアニソン(っぽい曲)を制作すると聞いたときはすぐに「ハイ!歌いたいです!」と手を挙げ、勢いだけでそのボーカルの座をもぎとった。そのときもぜんぜんうまくは歌えなかったけれども、音楽担当の方がいい具合に仕上げてくれて、本当のアニソンみたいになって感動した。あれはとても楽しかった。音楽を作るってすごいなと思った。

歌がすきなのと、音楽がすきなのは、微妙に違う。みたいなことを、ずっと思っていた。それはひとつのコンプレックスのようなもので、わたしは歌うことがすきだけれども「音楽がすき」と胸を張っては言えないようなところがあった。如何せん楽器も弾けないし、楽譜も読めないし、どの曲が何というジャンルで、誰が誰に影響を受けてこの革新的な音楽が生み出されたのだ、みたいなこともあまりよく知らない。この曲カッコイイな!と思っても、何がどうカッコイイかを語る言葉を殆ど持っていない。そういう諸々の後ろめたさのせいで、わたしは「音楽がすき」と言うことを、何となく憚って生きてきたのだった。

でも、このmonotologueを始めるときに、決めたのだ。他者との比較によって自分の感性を縛りつけるような真似はやめようと。すきなものはすきだし、やりたいことはやりたい。知識も技術も、やろうとするから必要になって、身についていくのだと。そう思うことにした。

わたしは音楽がすきだ。と、今はすごく思う。たまたまいいタイミングで志茂山さんのライブを観て、いいなあと思って、そしたら一緒にやってもらえることになって、音符も書けないまま鼻歌で曲を作ったり、気持ちのいいテンポを探ったり、すきな音色を提案したり、曲のイメージを雑なポエムで共有したりする作業はとても楽しかった。今はまだ発表できるものが「しまうま練習曲」しかないけれども、他に作っている曲もある。志茂山さんにおんぶに抱っこではあるが、それでも一度自分で作ってみると、世にある音楽を聴くときの耳が変わるなあなどと、生意気なことを思ったりもしている。フィーチャリング第一弾を快く引き受けてくれた志茂山さん本当にありがとうございます。

わたしという人間は生粋の節操無しなので、もっともっと色々やってみたいという気持ちがある。大学時代に憧れたアカペラもやってみたいし、やっぱりバンドもカッコイイし、ラップもやってみたい。一緒にやってくれる人を一生探しつづけようと思う。あと、楽器はカリンバを弾けるようになりたい。

そんな感じで。思うままに楽しく、音楽やらせてもろてます。
monotologue TEMPO。どうぞよろしくお願いします。

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