#01 白いノート。[前編]

一冊の白いノートがある。ある日閉じられてから、ただの一度も開かれないまま、幾度となくおこなわれた断捨離を経ても捨てられることはなかった白いノート。やたらと単価の高い洒落た文房具ばかり置いている店で買った、DesignphilのMDノートだ。何に使うかも決めないまま、ただその美しい佇まいに惚れて衝動買いしたものだった(わたしには意味もなくノートを買う癖がある)。

独白を始めるにあたり、このノートを開いてみようと決意した。今まで怖くて開けなかった。それでも捨ててはいけない気がして、いつか読むべきであるような気がして、ずっと本棚のすき間に挿してあったのだ。このノートは、十年ほど前、わたしが抗うつ剤と抗不安剤と睡眠導入剤をかわりばんこに飲みながら、毎日毎日、まえの日に録画したドラマを観ながら生きていた頃の、日記だ。

あの頃の記憶は、もう殆どない。記憶がないのか、記憶するほどのことが起こらない日々だったのか、とにかく全然思い出せない。浮かぶのは、住んでいた大阪のマンションのリビング。ソファに寝そべって観ていたテレビの画面ばかりだ。ほんとうに毎日、わたしはドラマばかり観ていた。それも、なるべくくだらないものを選んで観ていた。出てくる人物全員の芝居がヘタで、ぼーっと観ていても状況をすべてセリフで説明してくれて、主人公が謎の特殊能力で毎回事件を解決して終わるような、心に刺さるものが何もない、ただ時間だけ消費してくれるドラマばかりを選んで観ていた。「なんぴとたりともわたしの心の琴線に触れてくれるな、死にたくなるから」、そう思っていたような気がする。

わたしの様子がおかしくなったとき、初めに気が付いたのは夫で、そのとき抱えていたあらゆる仕事の締切を放り出したまま延々と泣き続けるわたしに、夫は「言ってくれんとわからんよ」と言い、わたしは五百万回の逡巡を繰り返したあと「死にたいの」と言った、ような気がする。言葉にすると何と陳腐に響くのだろう。泣きながらそう思った、ような気がする。

細かいことは覚えていないけれども、ともかくわたしはおかしくなっていた。もともとあった偏頭痛が殆ど毎日起こるようになり、頭痛薬の飲み過ぎでずっと胃も痛かった。会社に行こうにも吐き気が止まらず、吐くと頭痛はさらに酷くなった。トイレにうつ伏せたまま会社の出社時刻を迎え、そのままぼんやりと会社を休んだりした。そういうふうになってしまう自分が嫌でさらに内罰的になり、底なしの絶望にかられて夜は眠れず、また体調を崩した。地獄のようだった。どうしてそうなったのか、そのときは分からなかった。ただ、仕事も家事も何一つまともに出来ない自分への強烈な嫌悪感と、こんな人生は早く打ち切ってしまいたいという激しい衝動だけが、そこにあった。そのことは覚えている。

「死にたいの」と言うわたしに、夫は辛抱づよく寄り添ってくれた。わたしがめそめそ泣きながら、自分がいかに不出来で存在価値のない人間かをつらつら訴えると、「生きていてくれるだけでいいよ」と何度も言った。そのたびにわたしは「そんなわけない」と反論し、また泣き、泣いて夫を困らせる自分をまた嫌悪し、消えてなくなりたいと願ってまた泣いた。最悪だ。こんな女が家に居たらわたしだったら耐えられない。今でもそう思う。

そんなある日、わたしは会社に行かなくてもよくなった。詳しいことはよく分からないが、当時わたしは夫と同じ会社に勤めていて、わたしの関わっていたおよそ全ての仕事を、夫が手を尽くし、引き上げてくれたのだった。そしてわたしは会社を辞め、夫の言葉どおり「生きているだけでいい」人間となった。ノートに日記を書き始めたのは、それからしばらく後のことだと思う。

日記を開いてみると、内容は思ったよりも安穏としていた。「今日も朝起きられなかった」とか「ブリ大根を作った」とか「日曜日が楽しみだ」とかそういうことが半分くらい。あとは、「薬がもうなくなってしまう」「薬を飲むと吐き気がする」「クリニック(心療内科)にいきたくない」というようなこと、そして時々、性懲りもなく「死にたい」という気持ちが書かれていた。

私は夫の、負担にしかならない。だから、夫の前から消えてなくなりたいと思った。でも現実は難しくて、何度考えてもどう考えても、私が夫の人生になんの傷もつけずに消えるのは、不可能なことみたいだ。突然いなくなったり、死んでしまったりしたら、夫は「妻が自殺した人」とかになってしまうし、夫の人生がおかしなことになりそうだ。だから私は、離婚するのが一番現実的なんじゃないかと思った。だからそう言った。

2009年12月21日の日記より抜粋

日記のなかで、夫はどこまでも優しい。わたしは宥められ、抗不安薬を飲み、やがて落ち着き、数時間後にはテレビでM-1を観て笑っていた。本当にわたしは、「夫に迷惑をかけてはいけない」「この人の人生に傷をつけたくない」という一心で希死念慮を乗りきったのだと思う。そして服薬をつづけながら、負荷という負荷を取り除いた生活することで、わたしは少しずつ、回復していった。

[後編]へつづく