独白を始めます。

独白を始めます。これは、遺書かもしれません。

2020年、春。人類は、新型コロナウイルスに怯えている。世界中で更新されつづける感染者の数は、桁が大きすぎてもうよく分からない。緊急事態宣言。迂闊に出歩けない東京の街。タイムラインに流れてくる医療現場からの悲痛な声、対策に右往左往する政府への不信や絶望、怒り。こんなふうに文字にすると、まるでディストピアを描くフィクションみたいだ。過剰に劇的な表現をしてしまっただろうかと、読み返してみる。やっぱりぜんぶ本当のことだ。フィクションのような現実の中で、しかしわたしの生活はそんなには変わっていない。

わたしは普段から、いつも家にいる。演劇で舞台に立つことをのぞけば、仕事といえば主に、広告のデザインとコピーライティング、あとは少しの文筆業。フリーランスなので家が仕事場だ。外出の理由といえば舞台の稽古と本番で、それがないときは3、4日家から出ないことも、いつもどおり。わたしはもともと、家にいることが好きだ。

「37.5度以上の発熱が4日以上つづく場合」コロナウイルス感染の疑いがあると言われている。今日計ったわたしの体温は37.3度だった。昨日は37.1度だった。わたしはもともと、熱が出やすい。37.3度くらいの発熱は、多少の怠さを感じるものの、日常茶飯事、普段であれば平熱の範疇とするところだ。

それでも。

「いつものことだ」と何度自分に言い聞かせても、どうしても想像してしまう。「このまま熱が上がりつづけたらどうしよう」「感染していたらどうしよう」と、思ってしまう。

感染していたら、どうしよう。
(実際にどうすべきかは、東京都のホームページにおおよそ載っている)

思うのは、死のことだ。感染即ち、死。ではないことは分かっている。けれども、いま熱がないからと言って、感染していない保証も、死なない保証も、どこにもない。ないのだ。だからこそ、世界はこんなにも混乱しているのだから。

そこで、いったん死ぬ準備を始めることにした。
どうせ家にいて、時間はたくさんあるのだし。

自分はこれから、コロナウイルスに罹って死ぬ。ということを仮定してみると、思いのほか辛かった。今わたしがコロナで死んだら、「コロナで死んだ人」という事実だけが残るような気がして、それはすごく嫌だと思った。わたしがわたしとして生きた時間が、わたしだけが知っているこの時間の堆積が、まるきり無くなってしまう。そのことが、急にこわくなったのだ。

残しておきたいと思った。痕跡を。誰にも読まれず、インターネットを浮遊するだけのテキスト情報となってもいい。とにかく自分の人生の痕跡をこの世界に残したと、そう信じて、死ぬなら死にたい。そう思ったのだった。

だからわたしは、独白を始める。

記憶というのは時間とともに改変され、捏造されていくものであるし、その自動補正機能に抗うのは難しい。それでもなるべく、正直に。わたしの脳内に残っている記憶の断片を、それについて思ったことを、書きたい順に、書けるだけ書いていきたいと思う。宛先はよく分からないけれども、遺書のつもりで、書いていきたい。これがわたしの、いわゆる一つの死ぬ準備なのだ。

こんなふうに思うなんて、きっと数年前には考えられなかった。生きていると、ひとは変化を繰り返す。死ぬ準備を始めながら、わたしは今「死にたくない」という自分の感情と向き合っている。これは不思議なことに思える。正反対のことをずっと考えていた時期が、わたしの人生には確かにあったはずだった。ぱたりと蓋を閉じて、まるで無かったことかのようにしているあの頃のことを、まずは、書いてみようと思う。